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東野 峻 読売ジャイアンツ

東野 峻(とうの しゅん)は、読売ジャイアンツの投手です。
背番号は93。
この背番号からも分かるように、現時点で巨人としては大きな期待をしていなかったことがわかります。
しかし2008年シーズン中盤からジャイアンツの投手の中で救世主的な存在にもなりました。
先発に中継ぎに大活躍です。

【ルーキーのときの東野 峻選手の写真】はこちらです。

東野峻のプロフィールを見ていきましょう。
生年月日は1986年7月11日に生まれています。
茨城県鉾田市の出身です。
身長が186cm 体重85㎏です。
東野峻の出身校は鉾田一高ですが、高校の時に甲子園出場は果たされていません。
高校生ではほとんど無名に近かったので、映像や画像は少なかったでしょうに、よくプロスカウトは見ていたなという感じがします。
(常総学院とも対戦しているので、その時に見つけた金の卵だったのかもしれません。

2004年のドラフトで7巡目ではありましたが、読売ジャイアンツが指名に関して権利をとりました。
7巡目ということもあるでしょう契約金4500万円、年俸480万円でした。

プロ1年目の2005年から2006年シーズンは故障がちで出番はほとんどなく、2007年はファームでタイトルを獲得するなどのなど一気にせいちょうしてきました。

2008年シーズンは、開幕直前まで1軍へ入る枠から僅かに漏れましたが、途中から1軍での登板が始まりました。
主に中継ぎでの登板が多いですが、先発も務めて横浜に対して初勝利をしています。

東野峻の持ち球(球種)は、まずは150kmへ迫る速球が武器です。これに変化球が縦に割れるカーブとフォークになります。

高校生からドラフトで入団した東野峻選手、うまく成長してきましたね。
こんご東野選手の研究もされるでしょうから、それを超える進歩が欲しいところですね。
ともかくジャイアンツに現れた若手投手の一角です。
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細川 亨  福岡ソフトバンク

2011年に福岡ソフトバンクホークスへ移籍
日本一獲得へ大きく貢献しました。

細川 亨(ほそかわ とおる)名前を りょう とも呼んでしまいそうです。
埼玉西武ライオンズの捕手です。
背番号は27番。

前西武の監督、伊東勤さんの引退後の正捕手を勝ち取った選手です。
細川 亨(ほそかわ とおる)なのになぜか キヨシと呼ばれるのは、監督だった伊東勤さんが付けたものです。
中畑清ではななくて、顔が演歌歌手の氷川きよし に似ているからという理由です。
応援歌も打席に立つときは、「きよしのズンドコ節」を使っていて、ファンのコールもキヨシ!と完全に定着した感があります。


細川 亨のプロフィールを確認してみましょう。
1980年1月4日の生年月日で出身地は青森県東津軽郡平内町になります。
雪深いところからもプロ野球選手が出るようになってきましたね。
身長が183cm 体重は95kgです。

出身高校は青森県立青森北高校で甲子園出場の経験はありません。
当然注目を集めるような選手ではなかったので、映像や画像はありませんね。
青森大学へ進学してプレーを続け、捕手で一番打者を務めるなど捕手らしからぬ活躍で、全日本大学野球選手権大会ではベスト4まで進出しています。
ここで注目を集めるようになり 2001年のドラフトで西武ライオンズが自由獲得枠で指名しました。

契約金は1億円で年棒は1200万円で契約をしています。
ルーキーシーズンは、一軍での出番はほとんど無く終わりましたが、2年目の2003年シーズンは先ほども書きましたが伊東捕手の引退で出番がまわってきました。
今シーズンを足がかりにレギュラーへの階段を確実に上っていきました。
2006年には、高卒ルーキー捕手 炭谷銀仁朗(登録名:銀次郎)に開幕スタメンを取られましたが、それも一時的なことでした。

この年からスローイングも安定し、盗塁阻止率も2割台から4割台へ一気に上昇両リーグナンバーワンとなりました。
細川 亨の年棒も6000万円と伸びてきています。



残る課題はバッティングです。
こちらも成長はしてきていますが、規定打数到達した中では最低の打率となったりしています。

細川 亨 独自の打法を行ったりしています。
バスター打法 とも ズンドコ打法といわれたりしていました。
バントの格好をして、そこからバッティングを行っていましたが、2008年は止めています。
他にも真似する選手もいて、ちょっとしたブームに・・・

いろんな話題がある細川 亨選手ですが、プライベートでは結婚していて一男一女の父親でもあります。
その結婚した相手 お嫁さんが、社長をしている人で名前は眞紀子さんです。
真紀子さんがやっている事業が、保育園運営・ベビーシッター派遣の「フェアリー・キッズ」という会社です。

細川 亨は今後課題の打撃をどう克服して行くのかがやはり課題ですね。

テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

岩村明憲 レイズ(メジャーリーガー)

岩村 明憲(いわむら あきのり)タンパベイ・レイズ(アメリカンリーグ東地区)の内野手です。
背番号は1です。
岩村が入ったときはデビル・レイズでした。
レイズへは2006年ポスティングシステムを用いて、東京ヤクルトスワローズからからメジャーリーガーを目指しました。
450万ドルの入札でデビルレイズが獲得。
レイズと3年で総額770万ドル(円レートで変わります)約9億円で契約しています。
これはレイズにとって結果的にかなり、お得な買い物でした。
契約金 ではないですが 年棒は約3億円。
金額からも分かるように、メジャーリーガーの給料のレベルからすれば決してして高いと言えるものではありません。
日本で見ればトップクラスに入りますが・・・


↑岩村 メジャー(レイズ)の画像です。クリックすると拡大します。



岩村 明憲がレイズに入るときは、特にレギュラーが約束されていたわけではありあませんでした。
十分な活躍で3割を超えるような打率などの成績をあげ、1番サードのポジションをがっちりつかんでいます。
レイズは万年最下位のお荷物球団的でしたが、岩村のリードもあり2008年は見事地区優勝を果たしています。
まさに欠かせない選手となっています。

では岩村のプロフィールを見てい行きましょう。
生年月日は1979年2月9日生まれです。
身長が175cm 体重79.4㎏ 
出身地は愛媛県宇和島市
出身校は宇和島東高校です。
名門校ではありますが甲子園出場はありませんでした。
なのでこのころの岩村の写真や画像はありませんね。
がしかし、四国の怪童とも呼ばれる強打者で、高校の全日本選抜にも選ばれています。


↑岩村モデルのグローブです。クリックすると拡大します。

1996年にドラフト会議で当時 ヤクルトスワローズに2位指名を受けて、契約をしました。このとき兄である岩村敬士も近鉄バファローズから指名を受け兄弟同時という大変珍しいパターンになりました。

ヤクルトスワローズへ入ってからは高卒ルーキーとしては非常に順調ですね。
1997年は2軍でレギュラー獲得。
やはり打撃がすばらしい成績でした。打率リーグ2位でした。
そこから一軍で活躍するには少し時間が掛かりました。
ヤクルトの3塁には池山隆寛選手がいましたから、壁は厚かったですね。

岩村 明憲 2000年より完全にレギュラーを獲得しました。
もともと守備は苦手でしたが、猛練習で克服。
ゴールデングラブ賞を6度獲得するなど努力の人でもあります。

打席に立つときの音楽は矢沢永吉の大ファンということもあり「止まらないHa~Ha」をテーマ曲に、メジャーでもその英語版「HURRICANE」を使っています。

メジャーでも進化し続けているレイズの岩村選手の活躍は続きます。

越智 大祐 読売ジャイアンツ

越智 大祐(おち だいすけ)は読売ジャイアンツ(巨人)の投手。
背番号は62番です。
2008年のジャイアンツの大逆転リーグ制覇の立役者のうちの一人と言えるでしょう。
メイクレジェンドを実現した一人でしょう。
登板試合数は68試合とチームナンバーワンです。

越智 大祐のプロフィールを見ていきましょう。
生年月日1983年6月30日生まれの出身地が愛媛県今治市になります。
身長184cm 体重85㎏です。
右投げ右打ちです。

↑越智の画像がある雑誌です。クリックすると大きくなります。

出身校は新田高校で甲子園出場などの成績は残せませんでした。早稲田大学へ進学して、和田毅(現ソフトバンク)がいたりしたので、エースにはなかなかなれませんでしたが4年生の時には最優秀防御率を取るなど注目を集める存在となりました。
イケメンだし彼女とかいたのでしょうか、彼女いるのかなかな。

2005年のドラフトで 大学生・社会人ドラフトで読売ジャイアンツから4巡目の指名を受けました。
契約金が1億円 年棒が1200万円で契約をしています。

プロに入ってから2006年シーズンは2軍でもほとんど活躍なく過ごしましたが、2007年にはファームで41イニングを投げて、44三振を奪うという働きをみせました。
年棒は下がっていていて720万円(180万円ダウン)となりました。

2008年は飛躍の年で中継ぎに右のエースともいえる働きです。
越智 大祐の球種(持ち球)は150kmを超える速球と変化球はフォークが中心で時折スライダーを投げます。

↑越智のサインボールです。
見事に花開いた巨人 越智 大祐 今後コンスタントに活躍できるでしょうか。

小松 聖 オリックスバファローズ

小松 聖(こまつ さとし)はオリックスバファローズの投手です。
背番号は28番。
2008年シーズンに現れた救世主ともいうべき存在で、オリックス投手陣で一番の活躍をして、チームがクライマックスシリーズへ出場できる2位を獲得するのに大きな貢献をしました。
プロ2年目の小松 聖の15勝3敗というのは完全に新人王を獲得ですね。

小松 聖のプロフィールを見ていきましょう。
生年月日は1981年10月29日の生まれで、身長は180cm 体重が80㎏です。
右投げ右打ちです。
出身地は福島県いわき市です。

出身校は高校は福島県立勿来工業高等学校 (なこそ)で、甲子園を目指しプレーしていましたが3年生の夏のときに福島県大会で決勝までいくも、敗れてしまいました。

↑小松 聖の投球フォーム画像です。クリックすると拡大します。

大学は国士舘大学へ進学、東都二部リーグで投げていましたが、大学通算で4勝しか挙げられず注目はされませんでした。
学生時代の小松 聖の写真や画像はほとんど見つからないですね。

小松 聖がプロから注目を集める存在となったのは、社会人JR九州へ入ってからです。
2005年はエースだった樋口龍美と町豪将がプロ入りのためチームから抜けたので、エースの座に。
チームのJR九州を第76回都市対抗野球大会九州予選において第一代表獲得に大きく貢献しMVPにも選ばれています。
これらの活躍で一躍プロの注目を集めるようになり、
2006年のドラフトで大学生・社会人ドラフト希望入団枠で指名を受けました。
契約金1億円+出来高5000万円、年棒1500万円で契約しました。

プロ入り1年後の2007年には、一軍で中継ぎ登板をしてプロ入り初勝利もあげていますが、10試合の登板にとどまり十分な活躍とは言えませんでした。
年棒は契約更改で100万円ダウンの1400万円となりました。

2年目の2008シーズンは、先発投手に故障者が相次ぎ先発のチャンスがまわってきました。
プロ入り初勝利を挙げると、そこから順調に勝ち星を伸ばしていきました。
小松 聖の持ち球は、140キロ中盤のストレートと変化球はスライダー、カーブ、フォークを投げます。
内角へズバッとくるストレートと最近投げる投手が少ないカーブはかなり有効です。

勝負はしっかり他球団に研究される2009年シーズンですね。

チェン・ウェイン 中日ドラゴンズ

チェン・ウェインは中日ドラゴンズの投手です。
背番号は21番。
プロフィールは台湾の高雄県出身です。
台湾で学生でしたが、その素質にメジャー球団を含めた争奪戦が行われたほどの逸材。
その時、中日のアジアスカウトだった元中日の選手だった大豊泰昭さんに誘いを受けて中日ドラゴンズへ入団しました。

身長182cm 体重80kgです。

チェン・ウェインのプロフィールは、生年月日は1985年7月21日生まれ、出身校は台湾の国立体育学院になります。


↑チェン・ウェインの画像です。クリックすると拡大します。

大きな期待をされての入団でした。
2004年には一軍昇格は果たしましたが、登板はありませんでした。
2005年は初セーブを挙げるなど、着実に伸びてきていましたが、2006年シーズンに肘を骨折してシーズンを棒に振ってしまいます。
さらに翌2007年シーズンは怪我の治療に専念するために、育成選手枠になってしまいました。

かなり苦労してきたのがわかりますね。

しかし2008年シーズンは、その苦労が報われるものとなりました。
シーズン途中から、中継ぎの投手として登板、中日の先発投手がたくさん離脱する中で先発へ回りました。
ヤクルト戦では初完投、初完封をするなど、才能を開花させつつあります。

チェン・ウェインの持ち球(球種)はやはり何といってもしなやかな腕の振りから繰り出される150km近い速球で、変化球はスライダーが中心です。その他にカーブ、フォーク、シュートをもっています。

日本語もだいぶ話せるようになってきたので、そろそろ日本人の彼女でもできたりするかも・・・

これからまだまだ伸びシロはありそうですので、チェン・ウェインそろそろ日米が認めた才能が開花するでしょうか。

ダルビッシュ 有 北海道日本ハムファイターズ

ダルビッシュ 有(だるびっしゅ ゆう)は北海道日本ハムファイターズの投手です。
日本ハムの若きエース、球界を代表する投手、いまや全日本のエースともいうべき存在です。

ダルビッシュ yuのプロフィールは生年月日1986年8月16日生まれです。
本名はダルビッシュセファット・ファリード・有 なんです。

国籍は日本国籍です。
お父さんがイラン人で、お母さんが日本人でいわゆるハーフなんですね。
弟が二人いて、たしかどちらかは野球をやっているというのを聞いたことがあります。
↑ダルビッシュの投球フォーム画像です。クリックすると拡大します。

出身地は大阪府羽曳野市で身長が196cm 84㎏でかなりの長身ですね。
出身校は東北高校です。
1年生の時からエースとして投げ始め、2年の春夏と3年の春夏の合計4回 甲子園へ出場して活躍しました。甲子園では熊本工場を相手にノーヒットノーランを達成したりしています。
高校生ナンバーワン投手ですね。
注目も高かったので、画像や写真はいっぱい出ていましたね。

2004年のドラフトで日本ハムが1位指名をしました。
ダルビッシュはメジャーを選ぶのではという話もありましたが、日本球界を選びました。
契約金1億+出来高5千万、年俸1500万と完全に社会人と同じような待遇ですね。

(その後のプロでの活躍もあり球団は将来的にはポスティングでのメジャー移籍も視野に入れているようです。)

↑ダルビッシュ モデルのグローブです

そしてプロに入って、というか入る前につまずきました。高校生で相当ちやほやされていたんでしょうね。
パンチンコ屋で喫煙している写真を週刊誌に取られました。
当然未成年ですからあってはならないことで、鎌ケ谷市の球団寮で謹慎処分を受けています。
逮捕はされませんがそれくらいでは・・・

2005年は、故障もあり出遅れましたが、シーズン中盤より一軍へ上がりました。
そこからローテーションへ完全に入りました。
2006年はもエースとして活躍、シーズン成績は12勝5敗、日本シリーズでも活躍MVPを獲得しています。
2007年はついに開幕投手も務め、15勝5敗。沢村賞の選考基準をすべて満たし受賞もしました。完璧なエースですね。

ダルビッシュの持ち球はストレートが150kmを超え、変化球はスライダーを中心に、ツーシーム、カーブ、フォーク、カットボール、チェンジアップなどを投げます。

↑ファイテンのダルビッシュ モデルもあります

ダルビッシュ 有はすでに結婚しています。
奥さんはたしかananのモデル サエコ。
結婚を発表したときには既にお腹の中には子供が。。
出産には立ち会ったのでしょうかねえ。

ダルビッシュの年棒は2億円にいっています。
もちろん最年少での突破、松坂がデビューしたとき以上の成績ですから当然でしょう。

ダルビッシュ 有は、後から入ってきた大物ルーキ中田翔の教育役を買って出るなどチームの中心にもなりつつありますね。

亀井 義行 読売ジャイアンツ(巨人)

亀井 義行は読売ジャイアンツの外野手です。
背番号は35番。
右投げ左打ちの走(攻?)守そろった巨人期待の若手ですね。

亀井 義行のプロフィールは、生年月日が1982年7月28日です。
出身地は奈良県大和郡山市です。
出身校は上宮太子高校であまり野球では有名なところではないですね。
この高校の時に、3年の春に甲子園出場を果たしています。
それもこのときはエース投手としてです。
あまり高校時代の画像などは見かけないですね。
このときはドラフト指名を受けませんでした。

↑亀井選手の画像です。クリックすると拡大します。

中央大学へ進学して、野手に転向しました。
一年の時から4番に座るということでいかに野球センスが素晴らしいかがわかりますね。
東都大学リーグで大活躍して、東都のイチローとも呼ばれていました。
4年生では主将も務めていて、中央大学の1部リーグの優勝の大きな原動力になりました。
2004年のドラフトでジャイアンツに4巡目で指名されました。
契約金1億円、年俸1500万円で巨人と契約しました。

亀井 義行のルーキーシーズンである2005年は二軍で大活躍して素晴らしい成績を残しています。
シーズン終盤には一軍登録。
2年目から一軍での活躍が期待されていましたが、打撃の成績が振るわずレギュラー獲得までいきません。
時折見せる打撃からセンスはあるのですが数字がなかなか残りません。
2008年は打撃も調子よく1番としてスタメンに定着し、坂本勇人との若手1・2番コンビを組んでいました。
今度は試合中の怪我で足を故障してしまいしばらくの間、登録抹消されましたが、これまでにない良い成績を残していて打率も2割7分台とまずまずでしょうか。

打席に入るときにかかるテーマソング(応援歌)は湘南乃風の”黄金魂”をつかっています。

↑亀井選手の応援歌が入っています。

亀井 義行はイケ面で女性の人気も高いのですが、結婚しています。
子供もいます。
奥さんは旧姓 中村 愛さんで子供の名前は 大夢くんです。
大学時代の彼女なのでしょうか?

亀井 義行 選手そろそろ潜在能力を発揮して外野のレギュラー完全獲得できるでしょうか。

石井 裕也 横浜ベイスターズ

石井 裕也(いしい ゆうや)は横浜ベイスターズの投手です。
背番号は44番。

2008年シーズン途中で、横浜の外野手 小池との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍してきました。

あだ名ではないのですが、通称 ”サイレントK”と呼ばれる石井 裕也投手ですが、実は耳に障害があって、音は補聴器を使ってほんのわずかに聞こえる程度とのこと。
生れながらの先天性の難聴であるとのことです。

そんな石井裕也がバッターからたくさんの三振を取るので、サイレントKと呼ばれているのです。


↑一度読んでみませんか。クリックして確認してください。

石井選手のプロフィールです。
生年月日が1981年7月4日生まれです。
身長が178cm 体重が71kgです。
出身地は神奈川県横浜市港南区と横浜ベイスターズのお膝下。
出身校は横浜商工高(横浜商工高等学校)今は横浜創学館高と名前が変わっているらしいです。
高校時代は、甲子園出場こそなかったものの、3年の夏には県大会でベスト8まで進みました。
この時にすでにプロのスカウトの目にはとまる選手だったようです。
ただ無名といえば無名なので、石井投手の高校時代の映像や画像はあまりないですね。

そこから三菱重工へ入社して、社会人野球の道へ、チームは三菱重工横浜硬式野球クラブとなりましたがそのまま在籍をしました。
都市対抗には補強選手として他の企業の一員として出場して活躍をしました。


↑石井裕也の中日時代ですが、クリックすると拡大します。

2004年のドラフトで6巡目で中日ドラゴンズから指名を受けました。
中日はこの順位まで残っているとは全く思っていなかったようです。
やはりハンディを他の球団は気にしたのでしょうか。

契約金が6000万円 年棒が1200万円で契約してプロの世界へと入りました。
2008年の年棒が1800万円です。

石井裕也の持ち球(球種)は直球(ストレートが)140km代中盤くらいまで出て、変化球がスライダーがほとんどです。基本はこの二つで、あとはシンカー等も投げれるようです。

中日ドラゴンズでは左の中継ぎとして、入団した年から一軍で投げましたが、シーズンを通しての活躍がなかなか出来ない状況でした。
特に右バッターに対する投球は大きな課題です。

横浜ベイスターズは、もともと地元ですし環境も変わって、守護神 寺原の前のセットアッパーとして活躍中です。
先発もこなす能力もあるので今後はどんな活躍を見せてくれるのか、同じような難聴などの聴覚障害を持った人たちにとっても大きな光だと思います。

田中 浩康  東京ヤクルトスワローズ

田中 浩康(たなか ひろやす)は、東京ヤクルトスワローズの内野手です。
背番号は、7番をつけています。

田中 浩康はすっかりヤクルトのレギュラーとして当たり前の存在になりました。
2007年シーズンは2塁手(セカンド)としてベストナインをとっており、球界を代表するような選手になってきました。
2008年は契約更改で年棒が2200万円から4800万円と、一気に倍増しています。


↑田中 浩康の画像です。クリックすると大きく表示します。

プロフィールは生年月日が1982年5月24日で、 身長177cm 体重77kg となっています。
出身地は京都府木津川市です。

出身校を見ていくと、田中 浩康の高校は四国の香川県 尽誠学園高校です。
甲子園の常連校ですね。
1年生と2年生の時に出場していますが、大きな活躍もなくドラフトにかかることはありませんでした。
このころの映像や画像とか写真はあまり多くはなさそうですね。

正確に出身校というとこちらの早稲田大学になります。
早稲田へ進学して一年生からセカンドでレギュラーを獲得しました。
大学ではヤクルトの青木宣親や阪神の鳥谷敬とチームメイトとしてプレーしています。
大学野球での活躍で2004年のドラフトで田中 浩康は東京ヤクルトに自由枠で指名されました。
このときは契約金1億円プラス出来高払い5000万円、年俸1500万円とドラフト1位として目いっぱいの条件ですね。


↑ユニフォームを着て応援しませんか。

一年目の2005年こそ、一軍での活躍はありませんでしたが2軍(ファーム)ではしっかりと結果を出していました。

プロのスピードに慣れた2006年シーズンから一軍での出場機会が増え、2007年からは完全にレギュラーとして試合に出ています。
順調に自分の力を伸ばしてきているということですね。

田中 浩康の登場するときの曲はTERIYAKI BOYZ「Tokyo Drift (Fast And The Furious)」を使っていました。

田中 浩康のエピソードとしては、試合中に20打席以上ヒットのない中日の井端選手に どんな気分ですか と聞いたとか。
阪神戦で振り逃げなのに一塁に走らなくてアウトになるなど、少し天然系が入っているかもしれませんね。
彼女なんかもいて、さらっと結婚しちゃいそうな感じがします。

田中 浩康は完全に東京ヤクルトのセカンドのレギュラーとして定着しています。

鉄平 東北楽天ゴールデンイーグルス

鉄平は東北楽天ゴールデンイーグルスの外野手です。
1番バッターとしてチームを引っ張ります。
背番号は46番。

東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生したときに中日ドラゴンズから金銭トレードで移籍してきました。
もしかしたら移籍してきた選手の中で一番幸せだったかもしれません。


↑鉄平の画像です。クリックすると拡大します。

プロフィールは、生年月日が1982年12月27日で、出身地は大分県大分市です。
ちなみに本名は 土谷鉄平
身長は178cm 体重は78kg
出身校は大分県立津久見高等学校 (津久見高校)です。
九州では名門校ですね。
高校時代は甲子園こそ出場はなりませんでしたが、打率は5割を超えて、俊足、強肩と3拍子揃った選手で、九州のイチロー と呼ばれたりもしました。

2000年のドラフトで中日ドラゴンズから5位指名を受け、契約金6000万円 年棒600万円で入団しています。
中日では期待されていましたが、一軍では結果をほとんど残すことが出来ませんでした。
守備でもショートから外野へ移されるなどかなり伸び悩みました。
ウェスタンでは好成績を残せたものの荒木、井端がいたので、一軍での出番は代走程度となっていました。
この頃の鉄平の画像や映像などはほとんど無いと言っていいでしょうね。


↑鉄平の帽子です。グローブは? クリックすると大きくなります。

転機となったのが楽天への移籍。
ここで開幕スタメンでセンターのポジションをつかみました。
打撃は好調を維持して、完全にレギュラーとしての地位を確立です。

年棒も一気に跳ね上がり、220%UPの3200万円にもなりました。

2007年シーズンは3割を打つなど、九州のイチローと呼ばれただけのことはあります。

オールスターにも出場したり、球界を代表する選手になりました。
東北楽天ゴールデンイーグルスでも人気選手となり、楽天野球団主催の『2006年度MVP選手』となったり、鉄平がプロデュースした弁当『鉄平おにぎり(具なし)』が造られてりしています。
鉄平直筆手ぬぐいが付いているそうです。

9打席連続三振という記録も作ったりしていますが。。

野球への取り組みはとにかく真面目で練習熱心です。
野村監督にも休日に練習しているのは鉄平ぐらいなんていわれたりしています。
これだと彼女を作ったりする時間は無さそうですね。

鉄平は東北楽天ゴールデンイーグルスを代表する選手になりました。

中島 裕之 埼玉西武ライオンズ

中島 裕之(なかじま ひろゆき)は埼玉西武ライオンズの内野手です。
背番号は3番です。
入団した時は56番でしたが、2004年から清原選手がつけていた背番号をつけています。
さすがに清原までのカリスマ性はありませんが、守備を含めて考えると実力的にはいい線いっていると思います。

2000年のドラフトで埼玉西武ライオンズに5位指名されて、入団時の契約金4000万円 年俸は600万円です。


↑中島 裕之画像です。クリックすると拡大します。

中島 裕之のプロフィールを1982年7月31日生まれです。
身長は180cm、体重 83kgです。
出身地は 兵庫県伊丹市です。
愛車はハマーです。

中島 裕之は現在は完全に日本を代表するようなショート(遊撃手)になりましたが、出身校は兵庫県立伊丹北高等学校 と野球では全く無名なところで、プレーに光るものはあったのでしょうが、甲子園に出たわけでもないです。
その時は投手でしたが、買われたのは打撃のようです。高校通算43本塁打。
発掘したスカウトはすごいですね。
当然、伊丹北高校時代での写真や画像なんていうのは全くないと言っていいと思います。
(なんでも報徳学園を受けたが落とされたとのこと)

入団最初の年こそ成績はいまいちでしたが、2年目の2002年でファーム(2軍)でレギュラーを取り、2003年は松井稼頭央のメジャーへの移籍がありその穴埋めとして出場機会が増えました。


↑中島が使用しているグローブです。クリックで拡大。

中島 裕之は、キャンプや自主トレで鍛えられたでしょうね。
これがハマって見事開眼。バッティングフォームも独特の高い位置に構えるもので、打率3割以上をマークするようになりました。

星野ジャパンにも選ばれ北京5輪にも出場しています。

埼玉西武ライオンズの寮もすでに出ていて、出るときは結婚かなんて言われていました。
彼女くらいはいるのでしょうか。

2008年の年棒が1億1000万円と大台にも乗せています。
中島 裕之が打席に立つときのテーマ音楽は「キセキ」 GReeeeNをつかっています。

ファンはサザエさんの中島(ナカジマ)の絵を使って応援をします。

小林 賢司  オリックスバファローズ

小林 賢司(こばやし けんじ)オリックスバファローズの投手です。
背番号は29番、右投げ右打ちです。

小林 賢司のプロフィールを簡単に紹介していきます。
生年月日は1985年07月03日生まれです。
身長が184cm 体重が82kgです。
出身地は山形県酒田市で、出身高校は酒田南高校 です。
そこから青山学院大学(青学)へ進学して、大学リーグで活躍しました。
出身校というと青山学院になるのでしょうね。


↑小林 賢司 画像です。クリックすると拡大できます。

小林 賢司の酒田南高校時代は、2年の春・夏に甲子園出場を果たしています。
その頃からドラフト候補として名前が挙がっていました。
高校の活躍で画像や写真はそれなりにありますね。

結局高校生のときにはドラフトには掛からず、青山学院大学へ進学しました。
そこでも実力を順調に伸ばして、東都大学リーグでも活躍をました。
3年生のときには春のリーグ戦で最優秀防御率を獲得しています。

顔もイケメンですから、きっとすごくもてたでしょうね。
彼女とかもいたのでしょうか?

2007年の社会人・大学生ドラフトでオリックスバファローズより1巡目の指名を受けます。

小林 賢司の持ち球(球種)はストレートは146kmを記録し、変化球がツーシーム、スライダー、カーブ、フォークとたくさんの変化球を操ります。
当然即戦力として期待されています。
契約金は8000万円、年俸1200万円で契約しています。

とにかくバランスの取れた本格的なピッチャーといわれています。

しかし、2008年シーズンは一軍での当番はなく、残念な結果になっています。

岩隈 久志 東北楽天ゴールデンイーグルス

岩隈 久志(いわくま ひさし)は、東北楽天ゴールデンイーグルスの投手です。
右投げ右打ちですが、実は左利き。
背番号は21番。

近鉄とオリックスが合併して、楽天が誕生したときに、オリックスバファローズに残る選手にリストアップされまいたがそれを拒否、結局金銭トレードで楽天へ移籍となりました。

そんな経緯を持つ岩熊のプロフィールは、生年月日が1981年4月12日で出身地は東京都東大和市になります。
身長190cm 体重86㎏ でこの数字以上にすらっとした細い感じに見えますね。


↑岩隈 画像です。クリックすると拡大します。

出身校は堀越高等学校で、地区大会でベスト4が最高でした。
高校時代の活躍はありませんが、長身から投げおろす速球がスカウトの目に入ったのでしょう。
1999年のドラフトで当時の大阪近鉄に5位指名されました。
契約金4000万 年棒500万での契約となりました。

入団の年は一軍登録はありませんでしたが、150キロに迫る速球もありかなり期待をされました。
翌年から一軍での登板が始まり、一気にチームのエースと言えるような成績を上げていきました。

2007年までの通算成績は、57勝43敗となっています。
楽天イーグルスに移ってからは、故障がちで満足な働きができていませんでした。
当然エースとしての期待があっただけに完全に空振り。
年棒も2007年は1億1000万円まで下がりました。
岩隈と野村監督との関係あまりいい感じではなかったですね。
期待の裏返しなのでしょうが


↑岩隈使用グローブ ナイキ製です 

2008年は遂に復活しました。
シーズン20勝の快挙を達成しました。
最後の最後に21勝いきましたね。背番号と同じ勝ち数。
最下位争いをしているチームで出ること自体すごいことです。
岩隈の考え方も変化していて、「一人で野球をやっているわけではない」と気付いたと本人が言っています。

私生活ではすでに結婚しており、お嫁さんは広橋公寿打撃コーチの長女まどか さんです。
子供は一人いて長女 羽音(うた)ちゃん 趣味に子供と遊ぶことと入れているくらい子煩悩です。

そんな家庭はもしかしたら両親との関係の裏返しなのかもしれません。
かなり両親との関係は良くないという話がありあます。
岩隈 久志は創価学会の会員ということも週刊誌で報じられたこともあります。

アテネ5輪は代表に選ばれましたが、北京五輪では調子がいいのにもかかわらず落選しました。日本がメダルを逃したことと併せて、岩隈を選ばなかったことも批判の対象になっていますね。

パリーグの投手はID (岩隈 ダルビッシュ)というひともいます。
個人でオフィシャルブログも開設していますね。
岩隈の画像や写真だけでなく、娘さんもちょっと写っていたりもします。

前田 健太 広島東洋カープ

前田 健太(まえだ けんた)は、広島東洋カープの投手です。

右投げ右打ちで、背番号は18。
これは広島では佐々岡真司が付けていた番号でエースの背番号ともいえますね。
入団時は34でしたから2年目に18へと変更、オーナーの肝いりと言いますから相当なものです。
広島の一押しの選手としてきっとこれから、いろんなところで写真や画像が見えるかも知れませんね。

前田 健太のプロフィールを。。
身長は182cm 体重が70㎏で生年月日は1988年4月11日です。
大阪府泉北郡忠岡町の出身で、出身校となる高校はPL学園です。
超名門校ですね。
1年の夏から試合に出るようになり、甲子園としては2004年の夏と2006年の春の2回です。
ちなみに3年生の時はエースで4番ということでバッティングも定評があります。
高校通算でホームランは27本打っています。
このころは大阪桐蔭が強く、ドラフトをにぎわせた平田良介、辻内崇伸、中田翔らと対戦しています。
かなり甲子園へのハードルが高いところですね。


↑クリックすると大きくなります。

2006年のドラフトで、広島東洋カープに1位指名されました。
契約金が8000万円で年棒が800万円で契約をしています。
 
前田 健太はその投球スタイルが、PL学園の先輩 桑田に似ていることから”桑田2世”と呼ばれました。そのくらいの素材だということですね。

持ち球(球種)はストレートが140km中盤から後半でて、変化球がドロップとも言われる縦に割れるカーブ。(これが桑田2世と呼ばれる所以です)
それに背番号を受け継ぐもとの佐々岡 前選手から、スライダーを伝授されています。

2008年シーズン成績は、開幕当初より1軍で登板して、順調に勝ち星を伸ばしています。
8勝2敗と、大きく勝ち越しているところが凄いですね。

広島東洋カープのチームの中では、大竹寛や齊藤悠葵と最も仲がよく、彼女のようなものということからすると今は、彼女はないのでは。
前田 健太のブログとかあればそんな内容を書いてくれると面白いのですが。

岩田 稔 阪神タイガース

岩田 稔(いわた みのる)は阪神タイガースの投手です。
背番号は21番

岩田 稔のプロフィールです。
大阪府守口市の出身で、生年月日は1983年10月31日です。
血液型はO型です。
左投げ左打ち。
身長は178cm 体重85㎏です。


↑岩田稔 画像。クリックすると拡大します。

出身校は高校が大阪桐蔭高校と名門校で2年の秋からエースとなりました。
本来であればこの時点でドラフトにかかる素材だったかもしれませんが、3年の時に腰を故障してしまい登板できませんでした。
中村剛也や西岡剛が活躍していただけに余計に目立たなかったのかもしれません。
このころの岩田の写真や画像はあまりないですね。

3年の冬、岩田 稔を襲った病が糖尿病。
風が原因で1型糖尿病を発症してしまったのです。

進路として社会人野球を選んでいたのですが、関西大学へ進学することになりました。
大学でも怪我に悩まされて、良い成績は上げられませんでしたが、2005年のドラフトで希望入団枠で阪神タイガースを指名しました。
投げる球に将来性が見られたのでしょうね。それだけ光った球を投げていたのでしょう。

契約金は1億円プラス出来高払い5000万円。年俸が1500万円ということで満額回答といったところでしょうか。



岩田 稔の持ち球(球種)はまず、最速150キロのストレート速球と変化球で90キロのカーブが基本。カットボール、チェンジアップを操ります。

2006年シーズンと2007年シーズンは一軍登板はありませんでしたが、2008年シーズンはちょっとブレイクしました。
阪神タイガースの1軍投手でローテーションを守って投げています。
9勝10敗と微妙な勝ち負けのバランスですが。。。
新人王の候補としても名が上がるような活躍ではあります

2007年シーズン中に結婚も発表してることも飛躍につながったかもしれませんね。

糖尿病を抱えて一日に何回もインスリン注射をしなければなりませんが、岩田 稔が活躍することによって勇気づけられる人も多いでしょう。
岩田実本人も他の糖尿病のアスリートに勇気づけられているので、よく自覚しているようです。

鈴木 尚広 読売ジャイアンツ(巨人)

鈴木 尚広(すずき たかひろ)は読売ジャイアンツ(巨人)の外野手です。
背番号は12番です。
 なおひろ ではありません

鈴木 尚広のプロフィールです。
生年月日 1978年4月27日で、福島県相馬市が出身地です。
出身校は相馬高校です。
身長が176cm 体重68kgで、プロの中では小さい方ですね。

相馬高校と野球では全く無名の高校で、甲子園の出場経験がありません。
チ-ムとしての成績は1年秋の東北大会ベスト8が最高の成績で、3年の夏の大会では県大会の3回戦で敗退しています。
高校では遊撃手(ショート)で右打者でした。
高校通算打率が4割を超えているのと、きっとその俊足がスカウトの目に留まったのでしょう。
なので、アマチュア時代の鈴木 尚広の画像や写真はほとんど無いようです。


↑鈴木 尚広使用グローブ 画像をクリック

1996年のドラフトでジャイアンツに4位指名されて、契約金が5000万円 年棒が480万円で契約をして晴れてプロの仲間入りをしました。
2006年には年棒が2800万円になっています。

プロ入りしてからは、走塁に関しては、生まれ持った俊足もあり足を認められてはいましたが、故障に弱くバッティングがなかなか上手く行きませんでした。
その間に足を生かすために、左バッターへ転向したり、守備位置を内野から外野へ移ったりしました。


↑鈴木 尚広の応援歌 が入ったCD 画像をクリック

鈴木 尚広は基本的に原辰則監督と縁があるようで、コーチの時代から原監督の目指す野球に合っていたんでしょうね。
2002年に原辰則さんが監督として就任してから一軍での出番が少しずつ増え始めました。

ただ、巨人は大型補強が相次いでいたので、野手でレギュラーを取るのは難しく基本的に控えとしての立場が多いです。
足のスペシャリストとして、代走という起用されることもしばしばです。

ただ本人も足だけは誰にも負けないとの自信を持っていて、そのような飛びぬけた特長があるのでここまでプロでやってこれたのでしょう。

打撃も2006年からスイッチヒッターに戻したりして苦しんではいますが、だんだん向上してきているようです。
2007年シーズンから背番号が68から12へとなっていることからも、チームから期待されていることがわかりますね。

打席に立つときの応援歌というかテーマ曲は、THE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』をつかっています。応援コールはタカヒロです

山口 鉄也 読売ジャイアンツ(巨人)

山口 鉄也(やまぐち てつや)は読売ジャイアンツ(巨人)の投手です。
背番号は47番ですが、これはジャイアンツでは工藤公康(現 横浜ベイスターズ)がつけていたものなのでかなり期待が大きいです。

プロフィールは生年月日が1983年11月11日生まれで、 身長183cm 体重74kg です。
出身地は神奈川県横浜市です。
左投げ左打ち。
出身校は、横浜商業高校で3年生のときにエースでしたが甲子園へ出た経験はありません。
ただそれよりも前、横浜市立菅田中学校の3年生のとき菅東ドラゴンズ(少年野球チーム)で全国大会ベスト4という実績を残しています。


↑ジャイアンツの若手の特集。当然 山口 鉄也もはいっています。
クリックすると拡大します。

高校卒業後は進学予定であったのを、アリゾナ・ダイヤモンドバックスからの誘いを受けてマイナー契約を結び渡米しました。
このとき少し話題になりましたので画像や写真が残っているはずですね。

ドラフトに漏れた選手をメジャーが狙っているんですね。

ダイヤモンドバックスの下のミズーラ・オスプレイ(ルーキーリーグ)で4年間野球をして帰国。残念ながらメジャーへというわけにはいきませんでした。

2005年に山口 鉄也は、読売ジャイアンツの入団テストを受け見事合格。
その年の育成選手ドラフトで巨人から1位指名されて入団しました。
このときの背番号は102番。
2006年は育成選手なのでイースタン・リーグでしかプレーできませんでしたが、成績は見事なもので25試合に登板、防御率1.61の好成績です。

2007年も登録選手枠の関係から、最初は育成選手でしたが、シーズンに入ってすぐに99番の背番号に変わり、晴れて支配下選手登録をされました。
すぐに一軍出場の機会がめぐってきて、阪神戦で登板、ジャイアンツが逆転して、いきなり勝利投手となりました。
これが育成選手が始めて勝利投手になった瞬間でした。

そのあとは、貴重な左の中継ぎやワンポイントとして大活躍しました。

2008年も同じように左の中継ぎとして60試合を越える試合に登板して、中継ぎとして2桁である10勝を達成(11勝しています)という快挙を成し遂げています。


↑サインボール

山口 鉄也の持ち球は、特徴としてリーチの長い腕から放たれる、140km/h台中盤から後半に届くストレート。特に左打者には厄介な球でクロスファイヤーと呼ばれるものですね。
変化球はスライダーを中心に、カーブ、シンカーなどを投げ分けます。

背番号を遡ると、山口 鉄也の苦労した経歴がよくわかりますね。

まさにジャイアンツに無くてはならない戦力です。
と同時に育成選手の星ともいえるでしょう。
当然活躍に応じて山口 鉄也 投手の年棒も急上昇ですね

堂上 直倫 中日ドラゴンズ

堂上 直倫(どのうえ なおみち)は中日ドラゴンズの内野手です。
背番号は1番。
これは大リーグのカブスへ移籍した福留孝介がつけていた番号を引き継いだものです。
入団した時は背番号が24でしたので、いかに中日ドラゴンズが堂上 直倫に期待しているかの表れですね。

プロフィールは、生年月日は1988年9月23日生まれです。出身地は愛知県の春日井市になります。身長は180cm 体重80? 右投げ右打ちの内野手で主に3塁を守ります。
何といいても、父親と兄も中日ドラゴンズに所属していることです。
さすがに父親 堂上照さんは現役ではなくて、中日ドラゴンズの寮『昇竜館』の館長を務めていますが、かつては中日ドラゴンズの投手でした。
兄の堂上剛裕も中日ドラゴンズの外野手として頑張っており、親子3人がそろっているというのは他には例がな史上初のはずです。


↑堂上 直倫の画像。クリックすると拡大します。

出身校は野球の名門校として知られる愛知工業大学名電高等学校(愛高大名電)で、ここで1年生の時からレギュラーを取っていたのでいかにすごいことかよくわかりますね。
高校通算の本塁打(ホームラン)は55本を打ってます。
甲子園には3回出ています。2005年春の選抜、2005年と2006年は夏の大会です。
堂上 直倫の画像や写真は優勝した大会の時が当然多いですね。

。2005年春の大会では見事に優勝を飾っており4番でホームラン2本を打つなどしています。堂上 直倫 本人としては甲子園で5割近い打率を残しておりプロの注目を集めていました。
足も速く、肩も強いので3拍子揃った選手です。

2006年の高校生ドラフトでは、堂上 直倫は中日、巨人、阪神の3球団から1位指名を受けました。抽選で中日ドラゴンズが交渉権を獲得して、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1000万円と高校生としては破格の条件と言えるでしょう。



プロに入ってからは、一軍ではまだほとんど打席に立っていません。
しかし、ファーム(ウェスタンリーグ)2軍においては、最初の年から4番を打っており完全に球団として英才教育をしている状態です。

プロ入りしてからの成績はまだあまり出ておらず、2008年ではファームでの打率が.244で規定打席数にも達していません。
少し伸び悩んでいるところでしょうか。
同期で巨人へ入団した坂本の活躍にはかなりの刺激を受けているようです。

堂上 直倫は中日の将来の4番候補としてこれからどこまで伸びてくるのかが楽しみな選手です。

田沢純一 メジャーリーガー(大リーガー)

田沢純一(たざわ・じゅんいち)はメジャーリーグを目指す社会人野球 新日石の投手です。

プロフィールは、生年月日が1986年(昭和61年)6月6日生まれで、出身地は神奈川県横浜市になります。
身長 181cm 体重 81kg で右投げ右打ちです。

小学3年生から野球を始めて(三ツ沢小学校)、中学校は松本中学校。
出身校となるのが高校で、横浜商大高です。
田沢純一が2年生のときに横浜商大高は甲子園出場しましたが、ベンチ入りのみでした。
3年生はエースでしたが神奈川県でベスト4どまりでした。
甲子園での当番経験はありません。

2005年に社会人野球がある新日本石油ENEOSへ入社しました。
そこで頭角を現し、ドラフト候補選手として注目され始めました。


↑この帽子を被ることになるのでしょうか。クリックすると拡大してみることができます。

こんなことですので、田沢純一の写真や映像はなかなか無いですね。
動画も少ないでしょう。

2007年は、もう一年会社に恩返しがしたいとの意向を表明、ドラフト指名は回避されました。

迎えた2008年 日本のプロ野球球団が一位指名を検討していました。

2008年 夏の都市対抗では 田沢は全5試合に登板して4勝0敗の成績です。
MVPにあたる橋戸賞をとっています。

日本ハムと横浜ベイスターズがかなり具体的であったようです。

そこへ寝耳に水の情報が飛び込んできました。
田沢純一が日本のプロ野球を飛び越して、最初からメジャーリーグへ挑戦することを表明しました。
日本のプロ野球球団には断りをFAXで入れています。

メジャー各球団は獲得をねらています。
田沢純一の有力な行き先としては、松坂大輔がいるボストン・レッドソックスが上がっています。
タイガース,マリナーズ、ブレーブス、カブス、メッツなども狙っているとのことです。

田沢純一の球種(持ち球)は、まずは最高速156kmをたたき出すストレート。
変化球はスライダーとフォークが主な武器です。


今回問題なのは、日本とアメリカの間でのアマチュア選手にたいする取り決めが全く無いことです。少し語弊があるかもしれませんが、紳士協定という暗黙のルールらしきものがあるだけ。ドラフト対象選手には、ドラフト会議以前は手を出さない ということです。

ただ拘束力も何も無いものであることも確かです
新日石に彼女がいたしないですかね。その人に止めてもらうのがいちばん効果があるかもしれませんね。

田沢純一をドラフトで強行指名する動きもあるようですが、交渉権を獲得しても時間切れを狙われてしまうかもしれません。

多田野 数人  北海道日本ハムファイターズ

多田野 数人(ただの かずひと)北海道日本ハムファイターズの投手です。
右投げ右打ちで背番号は16番です。

異色の経歴を持つ多田野 数人 投手 メジャー(大リーグ)からの逆輸入です。

プロフィールは生年月日 1980年4月25日生まれ、出身地は東京都墨田区になります。
身長 181cm 体重 80kg
ちょうど松坂世代と呼ばれるところに入ります。


↑多田野 数人 の画像(写真)です。クリックすると拡大します。

出身校は高校が八千代松陰高等学校で、高校3年の夏にチームを甲子園へ導く活躍でしたしたが、甲子園では一回戦にPL学園に敗れました。
ただその活躍があって、立教大学へ入学。
大学での活躍はすばらしく、ソフトバンクの和田毅(当時は早稲田)や楽天の一場靖弘(当時は明治)らと並び評価される投手でした。
特に和田とは「右の多田野、左の和田」と言われるほどでした。

2002年のドラフトの目玉選手に名前が挙がっており、上位指名が確実な状況でした。
とあるスキャンダルが発覚して、すべての球団が指名を回避しました。
多田野 数人がゲイのビデオに出演していたことがわかってしまったのです。
さいしょは多田野そっくりの男が・・・との噂だったのですが、立教大学野球部の監督が事実を認めました。

このことにより、野球をするためにアメリカへわたりました。
2003年に入団テストを受けてクリーブランド・インディアンスとマイナー契約をを結びました。
この年は3Aまで昇格して、翌2004年にはれてメジャーリーガーになりました。
(契約としてはマイナーのままだったそうです。)

↑多田野 3A時代のキャップ クリックで拡大します。

2006年に結局インディアンスから解雇通告を受けました。
その後アスレチックスの下に当たる3Aサクラメント・リバーキャッツでプレーしてそれなりの活躍も見せましたが、メジャーへのお呼びは掛かりませんでした。
メジャーで成功とまでは行かなかったですね。
このように、日本のプロ野球を経ずにメジャーに行ったのは、マック鈴木以来のことです。

2007年の大学生・社会人ドラフトで異例の逆輸入で北海道日本ハムファイターズが、2回抽選を外れた後に1位指名しました。
契約金6000万円 年棒がなんと3000万円で契約。
新人選手の扱いでは無いですね。

2008年に日ハムで日本でのプロ野球選手としての、生活がスタートしましたが自主トレーニング中に転倒して左手 手首を骨折してしまい、開幕には間に合いませんでした。
5月2日に楽天戦へ当番して、初登板初勝利を挙げています。

シーズン成績は7勝7敗と、少し微妙なところでしょうか。

多田野 数人の独特なのは、その投球ホームです。
体が非常に硬いとのことで(特に下半身)、投げるときのステップ幅が狭く上半身で投げている外国の投手のようです。
球種(持ち球)は140km代のストレートと、変化球がスライダー、ツーシーム、チェンジアップ、フォークなどを投げ分けます。
目玉は何と言っても消える魔球(テレビの画面から消えるので)である超スローボール。ただのボール と呼ばれます。
人を食ったようなボールで球速は40km程度では無いかといわれている山なりボール。
プロであれを投げできちんとコントロールするのは、かなり難しいらしいです。

なんともユニークな北海道日本ハムファイターズ 多田野 数人 投手今度はどんな魔球を・・・・。
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