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五十嵐 亮太 東京ヤクルトスワローズ

2010年 メジャーへ移籍。。

五十嵐 亮太(いがらし りょうた)は、東京ヤクルトスワローズの投手です。
右投げ右打ち。背番号は53番です。
球界を代表する速球投手です。
日本プロ野球において日本人として最速となる158kmの記録を持っています。
一時、日本人でもっとも160kmに近い男と言われたこともあります。
肘を故障してからは、全盛期に比べるとほんの僅かに球速は落ちましたが、そうは言っても150キロを超えますので速いのですが・・・


五十嵐 亮太のプロフィールを見ていきましょう。
生年月日は 1979年5月28日生まれです。
身長は178cm、体重 74kgです。
出身地は北海道留萌市ですが、野球は千葉県のリトルリーグから始めます。
出身高校は敬愛学園です。
野球では全く名が知れている学校ではないですね。
なにせ中学時代には一塁手をしていたということですから、プロ選手にありがちなエースで4番をずっとやってきたというわけではないんですね。
しかし高校でその肩の強さを見抜いた監督が投手(ピッチャー)として起用、すべてがここから始まったといっても過言では無いでしょう。
五十嵐一人の力で地方大会で優勝候補にまでなりましたが、結局甲子園出場は果たせませんでしたが、剛腕投手として全国で名が知れる存在んになりました。
当然プロからも注目を集めます。
1997年のドラフト会議でヤクルトスワローズから2位で指名をうけプロ入りを果たします。

五十嵐 亮太のプロ入り一年目の1998年は、一軍登板はありませんが、高卒ルーキーですからそんなに珍しいことではありません。
2年目のシーズンからチャンスが巡ってきます。
一軍で中継ぎとしての活躍を始めます。もちろん注目はその速球。
一軍へ定着していきます。
それからは故障に苦しむシーズンもありましたが、ヤクルトの中継ぎというかセットアッパーとして不動の地位を獲得。
2000年のシーズンには、中継ぎであわや最多勝といったチャンスもありましたし、2004年には158キロという最高球速を記録しています。


↑五十嵐 亮太 モデルのグローブ。

しかしそのボールを担ぐような形から投げ込むフォーム故か肘への負担により右肘靭帯断裂という大きな故障をしてしまい、肘にメスを入れることになります。トミー・ジョン手術というものだそうです。
結局2006年シーズン途中から2007年間一年を棒に振ります。
2008年に見事復活を果たし、2009年シーズンには21試合連続無失点登板という東京ヤクルトスワローズの球団記録も樹立しています。

五十嵐 亮太の持ち球(球種)は、速球とフォークの2種類が基本。
スライダーとカーブもあるようですがめったに投げないですね。

五十嵐 亮太のプライベートは彼女など気になる存在でした。
何といっても 球界のキムタク と言われるその容姿。
SMAPの木村拓哉さんに顔が似ているということで、人気と野球の実力と高いです。
テレビで実際に共演したこともあります。

横浜ベイスターズのマスコットガールであった人と結婚して既婚者です。
子供も娘が二人います。

あとスワローズマンという覆面男のブログが立ち上がりましたが、間違いなく五十嵐良太本人ですね。。
そんなお茶目な一面もあります。

五十嵐 亮太 投手、その速球を武器に活躍を続けています。
やはり何と言っても、ストレートは一番の魅力ですが30代にも入ってきましたので、いかにピッチングの幅を広げていくかということは、これからの大きな課題なのかもしれません。
160kmのボールも見せてほしいですが。。
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テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

杉内 俊哉 読売巨人

2012年 ジャイアンツへ移籍
背番号18 エースナンバーです。
プレッシャーは相当大きいでしょうね。

杉内 俊哉(すぎうち としや)は、福岡ソフトバンクホークスの投手です。
背番号は47番です。
(憧れの工藤公康<現 横浜ベイスターズ>がつけていた番号です。)
左投左打です。

福岡ソフトバンクホークスのエースというべき存在です。
いわゆる松坂世代の選手になります。
日本最高の投手と言われるダルビッシュを上回るパリーグの奪三振王でもあります。

生年月日は1980年10月30日生まれになります。
出身地は福岡県大野城市で九州にて生まれ育ちました。
身長175cmで 体重が81kgですから、プロ野球選手としてはどちらかというと小さい方に入りますね。


↑プロ選手が認める美しいフォームの画像です。


出身校は、鹿児島実業高等学校で甲子園を3度経験しています。
もちろんエースとして、八戸工大一高校に対してノーヒットノーランを達成するなど活躍もしました。
ドラフトの候補にも挙がっていましたが、球速自体があまり早くないからか上位での指名がないとわかると社会人への道を選択しました。
このあたり杉内 俊哉 選手の性格がよく出ているところですね。

三菱重工長崎に就職して社会人野球で体を鍛え上げます。
球速も150kmに迫るまでになり、都市対抗野球大会出場にも貢献します。
シドニーオリンピックの日本代表に選ばれるまでになりました。

こうなれば当然プロも杉内 俊哉を放置しておくわけはありません。
2001年のドラフトで当時の福岡ダイエーホークスに3位指名されます。

プロ入り一年目の2002年から一軍での登板機会があり初勝利も記録しています。
制球力に問題がありなかなか勝利に結びつきませんでしたが、2年物シーズンからフォーム改造がきいて投手の主軸としての活躍を見せます。


↑杉内モデルのグローブです。

がなぜか、活躍するのは1年おきというのも、杉内投手に実力からすると不思議でしたが、2007年と2008年と二年連続二ケタ勝利を挙げ、克服しつつあるところでしょうか。

杉内 俊哉 投手の印象的なエピソードといえば、ノックアウトされたときに自分に腹を立てベンチ殴打事件で手を骨折してしまいます。
それだけの責任感と強い意志を持ってやっているということを表しますが、球団からは罰金を科せられています。

杉内 俊哉の持ち球(球種)は、ストレート、カーブ、スラーブ、スライダー、サークルチェンジ、チェンジアップ等を投げ分けます。

投球で心がけているのは、ふにゃふにゃ だそうです。
どういうことかというと、投げる瞬間だけにピュッと力を掛けて投げることを意識しています。
それまでの緩い感じの流れから、切れの良い球が繰り出されるのでバッターから見るとかなりタイミングが取り辛く三振の山となります。

プライベートでは、家族思いで有名です。
彼女ではなく奥さんはTV番組”とべとべホークス”でレポーターをつとめていた 上葉えりか さんと結婚、子供は長男 咲哉くんがいます。

日本球界のドクターKは、これからいくつの三振を積み重ねていくのでしょうか。

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和田一浩 中日ドラゴンズ

和田一浩(わだ かずひろ)は中日ドラゴンズの外野手です。
背番号5番。

バッティングが特に素晴らしく、高い技術を持っています。その独特な打ち方は和田選手ならではと言えるでしょう。
右打者で、生涯の通算打率が3割を超えています。
まだもちろん現役ですので、最終的にどうなるかはわかりませんが、3割ぎりぎりラインじゃないですからたぶん大丈夫でしょう。
そんなに足が速い方でもありませんから、内野安打などではなく純粋にたくさんヒットを打っているということになります。

では、和田一浩 選手のプロフィールを見ていきましょう。
生年月日は1972年6月19日生まれで、身長182cm 体重 90kgです。
出身地は岐阜県岐阜市です。
右投げ右打ちです。

出身高校は県岐商(岐阜県立岐阜商業高校)で、甲子園にもたびたび出場する伝統のある名門校ですね。マラソンの高橋尚子さんも同じ時に高校へ通っていました。


↑今や貴重な和田選手の捕手としての姿です。

そして大学は東北福祉大学でしたがドラフト会議で名を呼ばれることはありませんでした。社会人野球へ進み神戸製鋼で活躍、そこでの実績が認められて1996年についに西武ライオンズから4位での指名がありました。
捕手としての指名です。
このときの背番後は22番。

プロ入り一年目の1997年から一軍出場の機会はありましたが、基本的に代打での起用です。
なぜならこのときはすでに正捕手として絶対的な伊東勤 選手がおり、捕手として出場の機会を得るということはとても困難な時期に当たっています。

そのバッティングセンスというか技術はすでに定評があり、出場機会を増やすために2年目の1998年から外野手としても出場するようになります。
1999年も同じような状況が続きます。
基本的に捕手としては、伊東 中島に次ぐ3番手の状態でした。
そんな状態でも打率3割を超えてくるのは、驚異的なことですね。


↑和田選手の200号ホームランの時の画像です。独特の打撃フォームです。


和田一浩にとって転機となるのは2002年の伊原春樹 監督のときでしょう。
守備位置を外野手一本にしぼり、西武ライオンズの中軸打者として活躍、レギュラーを獲得ました。

その後のはシーズン中に調子を落とすことはありましたが、シーズン終わってみれれば打率3割を打っているというような状態で、完全に日本を代表する打者となりました。
2005年にはパリーグの首位打者もとっています。

背番後は2000年から5番となっています。

FA権を2007年シーズンに獲得、地元で憧れだった球団中日ドラゴンズへ移籍します。
2008年シーズンはセリーグのピッチャーに慣れるまで少し苦しみましたが、打率はしっかり3割を超えました。

外野手としては、守備はそんなに下手ではありませんが、足は速くないので守備範囲はあまり広くありません。
肩は捕手であったこともあり強いです。

今の和田選手を見てるいと、松坂大輔とバッテリーを組んで組んでいたことがあるということがとても不思議な感じがします。

和田一浩 選手 ニックネームはベンちゃん とか ビッグベンで同姓の和田勉さんから来ています。

あと外見的な特徴が・・・
頭に毛(頭髪)がないんですね。
本人はあまり気にしていないのことですが、プロとしての活躍を見るとそれもトレードマークのような感じも受けます。
アデランスなんて必要なしという潔い態度です。

プライベートとして、2004年に結婚して2007年に第一子が誕生しています。

独特の高い技術のバッティングを武器に、まだまだ和田選手の活躍は続きそうです。

テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

館山 昌平 東京ヤクルトスワローズ

館山 昌平(たてやま しょうへい)は、東京ヤクルトスワローズの投手です。
背番号は25番。右投げ右打ちです。

セリーグの連勝記録 14をもつ安定感抜群のピッチングです。
2シーズンにまたがって成し遂げられた記録です。
横手投げ(サイドスロー)からの速球は140km大の中盤を超えます。

大変コントロールが良く、ストレートも変化球も完全に同じフォームで投げることができます。
バッターからみれば、投球フォーム(投げ方)からどんな球が来るのか全く分からないということです。


持ち球は(球種)、ストレート(最速だと153kmを記録した)、変化球だとスライダー、シュート、フォーク、カットボールと投げることができます。

上下左右の4方向に変化する球種を持っています。(上はストレートとい言うことで・・・)。
これらをきちんとコントロールして投げることができるのです。
館山 昌平 選手いわく、どの球も一級品ではないといっています。
ただバッターの予測が当たるのは4分の1(25%)の確率。
(つまり4つの方向の変化の中のひとつだけ)
だから真ん中を狙って投げればいいと・・・・
謙遜も入っているでしょうが、それだけコントロールに自信があるということでしょうね。


↑ここにも出てきます。詳しくは画像をクリックしてください。

館山 昌平 選手のプロフィールを見ていきましょう。
生年月日は1981年3月17日生まれです。
身長が181cm、体重が83kgです。
出身地は神奈川県厚木市になります。

出身高校は、日本大学藤沢高等学校 (日大藤沢)で野球の名門ですが、ちょうど松坂大輔がいた横浜高校が全盛の時代で、地方大会などで度々投げ合っており、かなりいいピッチングをしていましたが、夏の甲子園への出場を果たすことはできませんでした。
松坂に注目が集まり過ぎたのか、高校卒業時にはドラフト指名されませんでした。
大学は日本大学へ進学、エースとして大活躍をしました。日本代表にも選ばれたことがあります。
大学の同期には、横浜ベイスターズの村田修一がいます。

2002年のドラフトで東京ヤクルトスワローズから3位指名を受けプロ入りを果たします。
2003年のシーズンは、一年目にもかかわらず夏場から先発ローテーションの一角を担いましたが、いい投球をするも勝ち星には恵まれませんでした。
2004年シーズンは、肘の故障でシーズンを棒に振りました。
2005年にはプロ初勝利、二ケタの10勝を挙げるなど活躍しましたが、シーズンオフに再び右ひじにメスを入れます。
その後、中継ぎでの活躍を経て、先発へ復帰。
14連勝の記録を打ち立てました。

プライベートでは、彼女どころではなく2005年に結婚しており、長女も誕生しています。
連勝記録は途絶えましたが、ヤクルトの主力投手として安定したピッチングをこれからも見せてくれるでしょう。
ちなみに千葉県館山市の「スポーツ大使」にも就任しています。
同じ名前だから・・・・

テーマ : プロ野球
ジャンル : スポーツ

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