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チェン・ウェイン 中日ドラゴンズ

チェン・ウェインは中日ドラゴンズの投手です。
背番号は21番。
プロフィールは台湾の高雄県出身です。
台湾で学生でしたが、その素質にメジャー球団を含めた争奪戦が行われたほどの逸材。
その時、中日のアジアスカウトだった元中日の選手だった大豊泰昭さんに誘いを受けて中日ドラゴンズへ入団しました。

身長182cm 体重80kgです。

チェン・ウェインのプロフィールは、生年月日は1985年7月21日生まれ、出身校は台湾の国立体育学院になります。


↑チェン・ウェインの画像です。クリックすると拡大します。

大きな期待をされての入団でした。
2004年には一軍昇格は果たしましたが、登板はありませんでした。
2005年は初セーブを挙げるなど、着実に伸びてきていましたが、2006年シーズンに肘を骨折してシーズンを棒に振ってしまいます。
さらに翌2007年シーズンは怪我の治療に専念するために、育成選手枠になってしまいました。

かなり苦労してきたのがわかりますね。

しかし2008年シーズンは、その苦労が報われるものとなりました。
シーズン途中から、中継ぎの投手として登板、中日の先発投手がたくさん離脱する中で先発へ回りました。
ヤクルト戦では初完投、初完封をするなど、才能を開花させつつあります。

チェン・ウェインの持ち球(球種)はやはり何といってもしなやかな腕の振りから繰り出される150km近い速球で、変化球はスライダーが中心です。その他にカーブ、フォーク、シュートをもっています。

日本語もだいぶ話せるようになってきたので、そろそろ日本人の彼女でもできたりするかも・・・

これからまだまだ伸びシロはありそうですので、チェン・ウェインそろそろ日米が認めた才能が開花するでしょうか。

堂上 直倫 中日ドラゴンズ

堂上 直倫(どのうえ なおみち)は中日ドラゴンズの内野手です。
背番号は1番。
これは大リーグのカブスへ移籍した福留孝介がつけていた番号を引き継いだものです。
入団した時は背番号が24でしたので、いかに中日ドラゴンズが堂上 直倫に期待しているかの表れですね。

プロフィールは、生年月日は1988年9月23日生まれです。出身地は愛知県の春日井市になります。身長は180cm 体重80? 右投げ右打ちの内野手で主に3塁を守ります。
何といいても、父親と兄も中日ドラゴンズに所属していることです。
さすがに父親 堂上照さんは現役ではなくて、中日ドラゴンズの寮『昇竜館』の館長を務めていますが、かつては中日ドラゴンズの投手でした。
兄の堂上剛裕も中日ドラゴンズの外野手として頑張っており、親子3人がそろっているというのは他には例がな史上初のはずです。


↑堂上 直倫の画像。クリックすると拡大します。

出身校は野球の名門校として知られる愛知工業大学名電高等学校(愛高大名電)で、ここで1年生の時からレギュラーを取っていたのでいかにすごいことかよくわかりますね。
高校通算の本塁打(ホームラン)は55本を打ってます。
甲子園には3回出ています。2005年春の選抜、2005年と2006年は夏の大会です。
堂上 直倫の画像や写真は優勝した大会の時が当然多いですね。

。2005年春の大会では見事に優勝を飾っており4番でホームラン2本を打つなどしています。堂上 直倫 本人としては甲子園で5割近い打率を残しておりプロの注目を集めていました。
足も速く、肩も強いので3拍子揃った選手です。

2006年の高校生ドラフトでは、堂上 直倫は中日、巨人、阪神の3球団から1位指名を受けました。抽選で中日ドラゴンズが交渉権を獲得して、契約金1億円+出来高5000万円、年俸1000万円と高校生としては破格の条件と言えるでしょう。



プロに入ってからは、一軍ではまだほとんど打席に立っていません。
しかし、ファーム(ウェスタンリーグ)2軍においては、最初の年から4番を打っており完全に球団として英才教育をしている状態です。

プロ入りしてからの成績はまだあまり出ておらず、2008年ではファームでの打率が.244で規定打席数にも達していません。
少し伸び悩んでいるところでしょうか。
同期で巨人へ入団した坂本の活躍にはかなりの刺激を受けているようです。

堂上 直倫は中日の将来の4番候補としてこれからどこまで伸びてくるのかが楽しみな選手です。

平田良介 中日ドラゴンズ

平田 良介(ひらた りょうすけ)中日ドラゴンズの外野手。
背番号は8番。

平田 良介のプロフィールは生年月日が1988年3月23日で出身地は大阪府大阪市城東区です。
身長176cm 体重84kg で、右投右打 です。

出身校は大阪桐蔭高等学校(大阪桐蔭高校)です。
1年生の秋から4番を任されるというのはすごいことですね。
甲子園では巨人に高校生ドラフト1位指名された辻内崇伸 投手と共に闘いました。
高校通算 本塁打数は70本と強打者ぶりを発揮。
特に2005年の夏の甲子園大会での一試合3ホームランとPLの清原以来の快挙を達成しています。準々決勝・東北(宮城)戦でのこと。


↑クリックすると平田選手の画像を拡大できます。

2005年の高校生ドラフトで中日ドラゴンズが1位指名、甲子園の後のアジアAAA選手権における韓国戦で右肩を亜脱臼したという怪我が1球団の指名になった要因かもしれません。
契約金1億円、年俸840万円で契約しています。

平田 良介の中日でプロとして成績はまだ、大したものは残せていません。
1年目の2006年シーズンは、肩の様子を見ながらということでシーズン終盤に一軍へ上がりました。プロ初打席を経験しています。

2007年も僅かな一軍での出場機会はありましたが、中日ドラゴンズの平田を印象付けたのはクライマックスシリーズから日本シリーズでした。
ダルビッシュからの犠牲フライは日本シリーズの行方を決める大事な一打でした。

あと好物は”焼きそば”と、ドラフト当時は言っていました。
趣味の読書は、マンガのことです。
契約更改で年俸 900万円(2008年現在)
プロ入りしてから、まだ彼女の話は出てこないですね。

プロの一流打者とはまだまだ差があります。
これからもう一段と鍛えていかないといけませんね。

岩瀬 仁紀 中日ドラゴンズ

岩瀬 仁紀(いわせ ひとき)は中日の絶対的守護神です。
最後に出てきて試合を勝利へ導くクローザー(抑え投手)という役割を担う
投手です。守護神なんて言い方もしますね。
左投げ左打ちです。
背番号は13番をつけています。


↑クリックすると拡大してみることができます。

岩瀬の実績に関しては言うまでもないですが、2008年のオリンピック。
星野監督率いる全日本チームのメンバーとして北京オリンピック出場を果たしています。
金以外はいらない と宣言して・・・
とくに調子が悪かったのが岩瀬でした、岩瀬の成績は考えられないもので、登板しては打たれる状態で負け投手になることがいくつもありましたね。
戦犯とまで呼ばれるほど悪かったですね。
画像や映像はその関係のものが多いかも、あと写真もかな。

岩瀬の出身は愛知県の西尾市です。
まっ茶生産量日本一なのです
出身校は高校が愛知県立西尾東高等学校でノーヒットノーランをするなど少し目立つ活躍もあったみたいですが愛知大学へ進学しました。
大学時代においては岩瀬 仁紀は投手と外野手をしていました。
実はバッティングもすごくて通産124安打と、愛知大学リーグの記録です。
岩瀬はバッティングもいいんでですね。
NTT東海を経て1998年 ドラフト2位で中日ドラゴンズに指名されました。

1999年入団一年目からフル回転。
このときは中継ぎ投手(セットアッパー)として、クローザーへバトンタッチする役割を見事にこなしました。
それ以降、登板試合数は9年連続して50試合を超える鉄人(鉄腕)ぶりです。
そのいずれもが立派と言える数字を残してきているので、この安定感は怪物としか言いようがありません。

2004年落合監督になってから最後に登板するクロザーに指名されました。
2005年には46セーブを挙げ、横浜ベイスターズ・佐々木主浩のシーズン最多セーブ記録を更新して新たな日本記録を樹立しました。
さらには次の年も40セーブを超えて2年連続も日本球界初めての記録です。

岩瀬 仁紀の年棒も実績を積むに従って上がっていき、日本人投手としては球界で最高レベルの4億3千万円となっています。
岩瀬はこれだけの年棒を貰って独身です。結婚してもいい年齢なのですがまだですね。
あまりプライベートの話は聞こえてこないです。

同じチームの投手 川上憲伸と大の仲良し。

ピッチングは持ち球が基本的にストレートとスライダー。
特にスライダーのキレは素晴らしく、一番の武器です。

9年にわたる疲労の蓄積なのか、球速は落ちてきておりかつての球の勢いで勝負するのではなくコントロールで勝負するスタイルに変わりつつあります。
バッター打ち取りセーブをする場面で苦労している姿が見られます。

山本昌 200勝

山本昌(ヤマモト マサ) 中日ドラゴンズの投手(ピッチャー)です。
山本昌は登録名で、本名は山本昌広ですね。
1965年8月11日 生まれなのですでに40歳を超えています。
背番号は34だったかな。

今年2008年に、200勝を達成しています。
最後の200勝投手になるかもしれないといわれています。

山本マサのプロ野球人生は1984年のドラフト5位で日大藤沢高から中日ドラゴンズに入団したことにはじまります。
最初のころは泣かず飛ばずの状態で、いつ首になってもおかしくない状態でした。
整理対象選手として名が挙がっていました。

転機は1988年ロサンゼルス・ドジャースと同じベロビーチでキャンプを行った後です。
若手選手5人が野球交換留学としてそのままアメリカに残ることになりました。
実はこのシーズンの戦力にはならないということだったらしい・・・

当時の懐かしい映像や画像がテレビで見られることもありますね。

アイク生原さんが熱心に指導してくれてピッチングの基礎を学び。
決め球のスクリューボールを会得。
これがはまって1Aのオールスターにまで選ばれるほどの活躍。
大リーグからも声がかかるほどでした。
その活躍ぶりに日本へ呼び戻され、一軍での活躍が始まりました。

そこから200勝へ向けて一直線となります。
1993年1994年と連続最多勝。
1994年は沢村賞をとっています。なんと19勝を挙げています。

投げれば記録になるような状態になってきていますが、輝いているのは史上最年長ノーヒットノーラン
です。
2006年9月16日の阪神戦です。
ナゴヤドームでした。
プロ野球史上73人目(84回目)となるノーヒットノーランを41歳1か月で達成しています。
残念ながら世界記録ではないのですが、左腕に限れば、世界記録となるそうです。

普段の生活というかプライベートでは、ラジコンです。
ラジコンカーレースの腕前はプロ並み。
現在楽天の山崎武司とともに山山杯という冠イベントを開いたりもしています。
クワガタやカブトムシも大好き。

ただプロ野球選手として縁がないのが、日本シリーズ。
何回も出ていますが未勝利。

とにかく一勝したいとの思いが強いようです。
本もいろいろ出ていますが、きっと引退したらいっぱい自叙伝とかの書籍も出すでしょうね。
これだけの記録を打ち立てれば・・



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